本稿においては、[講義Ⅲ]として、『生井利幸が与える「耳学問」(learning by ear)』について講じていきます。
当教室では、すべての学習者が、「耳学問の重要性」についてしっかりと認識・理解し、講師が講じる講義内容について、しっかりとノートにメモを取っています。
[講義Ⅱ]において既に講じましたが、通常、人が学問を学ぶとき、それは、「大学で講義を受講する」という様相・姿を想像するでしょう。ところが、残念な事実ですが、大学の大教室で講義を受講すると、教授者が学生の面前で講義しているその内容は、いわゆる「教科書通りの内容」となります。そうした中、わたくし生井利幸が唱える「『耳学問』で学ぶ学び方」とは、大教室でテキスト通りの方法で学ぶ方法ではなく、学習者が直接、教授者から、「難しい学問について、学習者にとって最も妥当な方法で学ぶ学び方」を指します。
耳学問について、これを教授者側から述べるならば、教授者が、学習者の能力・見識・立ち位置などについて”理性的に”判断し、「学習者にとっても最もわかりやすい方法で、一つひとつの理論・考え方について教えていく」という教授法です。耳学問とは、異なる表現を用いるならば、「個人に対して提供する『唯一無二の学習の機会』」であるのです。
例えば、学習者が、教室のレッスンにおいて耳学問を与えられるとき、その内容について繊細・詳細に記録し、後に、たっぷりと時間をかけてノートに整理すると、耳学問で学んだ一つひとつが、しっかりと学習者の体の中に入っていきます。逆に、講師が何度重要な学習ポイントを講じても、単に<聞き流し>をするだけでノートにメモを取らない学習者は、講師が長い期間にわたって何度も何度も重要ポイントを講じても、永遠と、何の進歩・発展も得ることができず、毎回、「無駄な時間の使い方」を繰り返すだけとなります。
わたくし自身、東京・銀座に「銀座書斎」を開設する前は、長年にわたって、米ペンシルベニア州ラフィエット大学で教鞭を執りました。言うまでもありませんが、わたくしは、”杓子定規な”教授法の下で学問を教える教授者ではありません。同大学では、講義中はもちろん、わたくしの研究室でも他の施設においても、常に、アメリカの学生たちに「唯一無二の耳学問」を与えていました。
さらに、わたくしは、頻繁に、学生たちを自宅にも招待していました。自宅では、学生たちと共にスイーツを食べ、コーヒー・紅茶などを飲みながら、実に楽しい雰囲気で耳学問を与え続けてきました。そのようにして学生たちと時間を過ごすことで、学生たちは、「身に付かない”典型的”学習方法」(stereotypical way of learning which is not scientifically effective)から離れることが可能となり、学生たちは、学問の中に「自分の心」「自分の個」を挿入することができ、<他人事としての学問>ではなく、学問を「自分の事」として見据えるようになりました。
ここからは、日本の東京・銀座に戻ります。わたくしが行う教育活動においては、レッスン中はもちろんですが、レッスン以外の時間でも、わたくしが学習者に対して講じる内容は「すべて重要な学習内容」です。本稿においても再度断言しますが、わたくし自身、学習者の面前で、「重要でない事項」について講じることはありません。
「生井利幸が与える耳学問の聞き流し」は、学習者にとっては、<マイナス要因>以外の何物でもありません。生井利幸が学習者に与える耳学問は、100パーセント、「わたくしの目の前に座っている学習者の教養を高めるため」に与えている絶好の学習の機会として捉えてください。
当教室のレッスンは、すべて「完全個人指導」です。当教室が、レッスンのすべてを「完全個人指導」で行っているその行為には、いくつかの「確かな理由」がそこに存在しています。その理由の一つは、学習者にとって最も身に付く学習方法は、一事が万事において「完全個人指導」であるからです。
わたくしは、今ここで、わたくしが学習者に与えるすべての耳学問は、いかなる場合・状況においても、「わたくしの目の前に座っている学習者」にとって最もわかりやすい方法で教授・案内するために存在する教授法であると”断言”します。