日本では、新聞やテレビ、あるいは、教育機関の広告などで、しばしば、「国際コミュニケーターを目指せ!」というような言葉を目にしますが、そもそも、この「国際コミュニケーター(international communicator)」とは一体どのような概念を指すものなのでしょうか。
無論、日本の人々が「国際コミュニケーター」になるために熱心に英語を学び、やがて「流暢に英語が喋れるようになる」ということは、時代と国際社会の推移を鑑みたとき、このことは頗る必要性に迫られたものであると明言できます。しかし、私の解釈では、真の意味での”international communicator”とは、単に「外国人と英語でコミュニケーションを図る人」という概念を指すわけではありません。
本稿においては、この問題に関係して、「コミュニケーションに内在する『本質』『根本』」について述べたいと思います。それは、日本人が言語としての「英語そのもの」をどのように学んだとしても、その本人が、「コミュニケーションに内在する『本質』『根本』」、即ち、(1)「コミュニケーションとは何か」、(2)「我々人間は、一体いかなる理由で他者とコミュニケーションを図るのか」、ひいては、(3)「より良いコミュニケーションとは一体どのようなコミュニケーションを指すのであろうか」という問題について究明せずして真の国際コミュニケーターにはなり得ないということです。
“international communication”という概念を考えるとき、まず第一に、「人類」(mankind)という広い立ち位置から「人間存在」にかかわる根本問題について考える必要があります。”自然科学的観点”から述べるならば、私たち人間は、それぞれが「一個の『個』」そのもの。言うまでもなく、一人の人間は、この地球に存在するありとあらゆる存在物の中の「一個の『個』」として捉えることができるのです。「一個の『個』」、・・・自然科学(natural sciences)として捉えるだけでなく、人文科学(human scineces)・社会科学(social scineces)の立場から捉えると、「人間」(human being)という存在者は、それぞれ「一個の『個人』『人間』」(one of human beings)なのです。
ご承知のように、コミュニケーションとは、「個人と個人における”交じり合い”」を指す概念です。したがって、その個人と個人の交じり合いにおいて、接するその相手が「何人」であるかという問題、即ち、コミュニケーションを図る相手の国籍、人種、民族、文化、習慣、宗教などを所以(ゆえん)として何らかの「偏見」(prejudice)、あるいは、「差別感」(sense of discrimination)を持つことは「極めて非理性的」(extremely irrational)と言わざるを得ません。「個人と個人におけるコミュニケーションをどう捉えるか」、・・・人間は、この問題について、自分自身を「地球的規模」、あるいは、「人類」という立ち位置から捉えることができたとき、「真の国際コミュニケーターへの道のり」について”真摯なる姿勢”で考えることができるようになるのです。
そもそも「英語」という言語は、コミュニケーションを図る相手が、英語を理解できる場合にのみ役に立つ言語です。言うまでもなく、世界史の潮流の恩恵を受けた英語は、現在、間違いなく「国際共通語」であるということは周知の事実です。しかし、言語としての英語を流暢に話せたとしても、その本人において、必要十分な「教養」「見識」「品格」「良心」等を備えていなければ、その本人を即、国際コミュニケーターとみなすことはできないでしょう。
例えば、「日本で生まれ、日本で教育を受けた日本人」が日本の高校を卒業し、その後、米国カリフォルニア州の大学に留学したと仮定します。最初の1年間は英語学校で英語を学び、やがて大学の学部課程に正式入学。卒業後はカリフォルニア州の企業に就職したと仮定します。この人の場合、アメリカで、語学学校・大学・就職と「毎年、アメリカ滞在を積み重ねているので、さぞ英語が上手になっているに違いない」という見方が一般的でしょう。
無論、英語そのものは、”それなりに”流暢になっているかも知れません。しかし、その一方で、ご本人において「国際レヴェルの『教養』『見識』『品格』『個人としての良心』」が養われているかどうかということは、「ご本人のアメリカ滞在期間の長さ」に比例してアップグレードしているとは限りません。なぜならば、(1)「英語圏の国に住む、という経験」と、(2)「優れた教養・見識・品格・良心を備えている、という一個人としての資質」は、それぞれまったく別の問題であるからです。
わかりやすく述べるならば、たとえ英語圏の国に何年住み続けようと、それが直接、「ご本人における教養・見識・品格の改善・向上に繋がっているというわけではない」ということです。例えば、長年アメリカ(英語圏)に住んでいる人でも、日本に一時帰国し、人前で日本語を喋るとき、(1)「目の前の相手に不愉快な思いをさせる」、(2)「一個人として、品格・品性に欠如した行動をとる(デリカシーに欠ける)」という有様は、かなり頻繁に見かける有様です。その一方、海外在住経験がなくても、「常に、他者の気持ち・心情を察し、より良いコミュニケーションを図るべく最大限の注意を払う」という人は大勢います。結局のところ、「人間の品格」とは、住んでいる場所に関係するのではなく、一事が万事において、「一個人としてのプライベートな問題」、「一個人としてのデリカシーの問題」であるということです。
本質を述べるならば、”international communication”の能力を養うには「英語圏に住んでいる・住んでいない」ということは関係のない問題であり、重要なことは、「それぞれの個人が、”今現在住んでいるその場所”において、世界で通用する教養・品格を養う」ということであるわけです。「international communicationとは、即ち、”human communication”である」、この本質を理解することなく”一言語”としての英語をどのように勉強しても、「品格のあるエレガントな英語」が喋れるようになることはありません。