文書教材

Vol. 4 「超・経験」としての”culmination”

投稿日:04/18/2019 更新日:

序論

「洋の東西」(both in the East and the West)を問わず、学問・文化・芸術・スポーツ等、自分の専門分野における”専門性”を究め、その専門分野において顕著に秀でるためには、その分野を究めるプロセスにおいて”ある種の経験”を積み重ねることが必要となります。その経験とは、いわゆる”culmination”。culminationを日本語に訳すると、「最高潮に達する」「絶頂に達する」等。culminationとは、「何らかの”具体的経験”(substantial experinece)における『最高潮の状態』(the ultimate stage culminated)」を指します。

言うまでもなく、いかなる分野においても、それを徹底的に究め、世界においてその分野の「頂点」に到達するには、その本人がどのような資質・能力を備えていようとも、「それ相応のプロセス(道のり)」を通過しなければなりません。

何らの挑戦もすることなく、努力しないで簡単に生きていきたいと考える人においては、本稿において述べる内容を理解することは極めて難しいでしょう。しかし、一方、迎える一日一日において「新たなる自分の可能性」を追求し、自分の人生における限定的・時間的空間において「自分の限界」に挑戦しながら自分を高めていきたいと切望する人においては、本稿の内容の理解は、「今後の人生における”decisive and meaningful bifurcation”(極めて重要、且つ、意味ある分岐点)の一つ」となるに違いありません。

本稿において述べるculminationについての考え方は、主に、学問・文化・芸術において該当する考え方ですが、「それ相応の見識・応用力」を備えた受講生においては、「『英知の源泉』(spring of philosophia)としての銀座書斎での学びの道」において、この考え方を「類推適用」(analogical application)することができます。

[本論] 「超・経験」としての”culmination”

特定の専門分野を究めるには、それなりの困難・試練を通過しなければならない。試練を通過するには、それなりの覚悟を決める必要がある。覚悟を決めない人が挑戦する挑戦は、本来、「真の意味での挑戦」ではない。

専門分野を究める道のりにおいて、探究者は、探究するそのプロセスにおいて、必ず「culminationの境地」を経験することが求められる。culminationの経験は、日々、自分の「無知」「無力」「弱さ」「愚かさ」と真正面から闘い、来る日も来る日も、やってやってやり抜かなければそこに到達することはできない経験である。海外でも、そして、日本でも、ある分野において秀でた能力を備えている人間は、皆、どのような困難・試練にも決して負けることなく、自らの”tenacious willpower”(強靭な意志)を基盤としてculminationを経験する。

例えば、後期印象派のオランダの画家・ゴッホ(Vincent van Gogh, 1853~1890)の画風は、世界で唯一無二の画風。”tenacious willpower”を源泉とするゴッホの「美意識」(a sense of beauty)は、時代の推移、そして、世界の文明・文化を超越して万人に愛され続けているものだ。画家の生き方は門外漢(outsider)には理解しにくい生き方であるが、ゴッホの「波乱に満ちた壮絶な生き方」は、世界中の人々に知れ渡った生き方の一つとして捉えることができる。ゴッホが、数々のculminationを経験して「世界で唯一無二の絵画」を生み出したというその事実は、もはや、世界的な常識の一つとなっているものだ。ゴッホの生き方から学べることは、「本物」は、まさに、時代や場所に関係なく「常に生き続けていく代物である」ということである。

「culminationの境地」に到達するには、次の如き精神基盤を樹立することが求められる。即ち、

(1)「当該分野において世界で最高峰に達するという『至上の決意』(the supreme resolution)をする」
(2)「いかなる逆境にも負けない『強靭な意志』(tenacious willpower)を自分の心の”中心”に樹立する」(「心の中」と「心の”中心”」の意味の相違に注意)

culminationの経験は、一度限りの経験では足りない。「本物」を目指す探究者に求められることは、当該分野について、それをやってやってやり抜いて、できるだけ多く、「心」と「体」全体でculminationを経験することである。

特定分野において、世界で最高峰レヴェルに到達するには、長い年月をかけて数多くのculminationを経験することが必要だ。culminationを経験する直前には、必ず、「鉄の壁」(iron wall)が見えてくる。探究者の”多く”は、「鉄の壁」の面前において息を切らし、何らかの「楽な道」を模索し始める。無論、そうした探究者が「楽な道」を選び、躊躇することなく率先して「楽な道」へと進んでしまったら、その時点において、その探究者における探究の歩みは終焉を迎えることになる。

ここで再度、芸術の話に戻りたい。芸術作品の創作活動においては、要所要所において(at key points here or there)、必ず「鉄の壁」が存在する。「鉄の壁」は、余暇において”趣味”として創作作品(芸術作品)を楽しむ人には決して見ることができない代物である。

一方、命を削って創作作品(著作・絵画・音楽作品等)を生み出すべく自身の全エネルギーを投入する創作者には、常に、自分の目の前に「鉄の壁」が見えている。

創作者は、常に、「『鉄の壁』から逃げれば何も生み出せない」という見識の下、勇気を持って、そして、頗る勇敢に、自分自身の汗と涙で「鉄の壁」を打ち砕き、やがてculminationを経験する。culminationを経験すると、創作者は何らかの具体的作品を生み出すが、後にまた、目の前が真っ暗闇と化してしまう。次の作品を生み出すためには、創作者は、また再び「初心」に戻り、勇気を持って勇敢に真っ暗闇の中をさ迷い歩き続ける。創作者は、tenacious willpowerを心の中心に置き、いかなる困難・試練にも屈することなく前に進む。そうすると、やがて、新しい「鉄の壁」が見えてくる。その時、その「鉄の壁」を突破するか、それとも、その「鉄の壁」から逃げるかで、「culminationの境地」に到達するかどうかが決まる。

既にあるものを使うのではなく「新しいものを生み出す」存在者は、分野を問わず、このような「超・経験」(transcendental experience)を繰り返しながら人生における一秒一秒を刻んでいる。「自己実現」(self-realization)、あるいは、「目的の達成」(the fruition of purpose)とは、結局、「自分の限界」との闘いによってのみ具現されるものである。

終わりに

「『自分の限界』に挑戦する生き方」、・・・受講生の皆さん、是非、勇気を持って勇敢に、命をはって実践してみてください。受講生の皆さんにおいては、このculminationについての考え方を、銀座書斎(Ginza Sanctuary)で歩む「国際的教養・品格を備えた英日バイリンガルへの道」において類推適用することを切望しています。

わたくし生井利幸は、常に、「本気で勉強する人」を応援しています。銀座書斎は、本気で勉強する本物の人々のために開放している「英知の源泉」なのです。

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